ABOUT US 県人会紹介・歴史

Introducing our President Mr. Yoshikuni Okita 
会長 沖田義邦氏をご紹介
Mr. Okita, President of the Kumamoto Prefecture Association of Southern California has been incumbent since 2010. He was born at POW camp in Crystal City, Texas during WW2. He grew up in his parents' hometown, Mifune, Kumamoto until he graduated from Mifune High School. In 1964, he returned to Los Angeles and served in the military during the Vietnam War. After graduating from USC, he has been working for Vons until the present. He loves Karaoke and flamenco dance.

Youtube: 次世代に伝えるー私のベトナム戦争従軍体験
戦争を知らない若い世代に従軍体験を語り継ぐため、沖田義邦会長の両親の渡米経緯から、ハートマウンテンとクリスタルシティ強制収容所でのできごと、ベトナム戦争従軍体験のストーリーをインタビュー形式でご紹介しています。このページの一番下にも、会長家族の渡米ヒストリーが紹介されています。



南加熊本県人会の沖田義邦氏は2010年に会長に就任以来、今日まで現役で活躍中。両親ともに熊本の御船町出身で、第二次世界大戦中にテキサス州クリスタルシティの強制収容所で出生、幼少期に両親と共に熊本へ帰り、御船高校を卒業するまで熊本で過ごす。1964年にロサンゼルスに戻り、ベトナム戦争に従軍。退役後、USCを卒業し、大手スーパーマーケット ボンズにて勤務中。書道、趣味のカラオケとフラメンコダンスで様々なイベントで特技を披露。

ACTIVITIES / 活動内容 活動内容写真 PICTURE LINK
1月 JANUARY 
定例役員会/Board member meeting 

2月 FEBRUARY
定例会、天皇誕生日祝賀会出席、県人会協議会新年会 Board member meeting/Emperor's birthday celebration, JPASC New Year Party 

3月 MARCH
新年親睦会/New Year Party 

4月 APRIL
定例役員会/Board member meeting 

5月 MAY
ゴルフ大会・メモリアルデー法要/Golf Tournament, Evergreen cemetery visit on Memorial Day

6月 JUNE
定例役員会Board member meeting 

7月 JULY

8月 AUGUST
ピクニック/Picnic

9月 SEPTEMBER
敬老感謝会/Senior Appreciation Luncheon

10月 OCTOBER
南加県人会協議会演芸会/Engeikai

11月 NOVEMBER
ボーリング大会/Bowling Tournament 

12月 DECEMBER
定例役員会、追悼法要、忘年会/Board member meeting , Evergreen cemetery visit, Year End Party 

その他/Others:
熊本復興支援募金活動/Love For Kumamoto in LA Kumamoto recovery Fundraiser

南加熊本県人会の歴史(100周年記念誌より抜粋)







会員の渡米ストーリー
以下は現会長の沖田義邦氏ご家族の渡米とその後についての聞き取りを元に記述されています。

沖田義邦氏の両親は1930年代に熊本の御船町からアメリカ西海岸に渡ってきましたす。父親は龍谷大学卒業後、沖縄で大学の英語教師の仕事を経て、語学力を買われ銀行の米国支店開設のために渡米しました。独身者として単身勤務していたため、途中、いったん日本に戻り、地元で玉名出身の女性と見合い結婚をしました。

母親の親族にはマラソンの父として有名な金栗四三もいました。母親の祖父は医者だったため、母親は若い時から家族に連れられて海外の戦地で医療アシスタントをしており、やはり英語が堪能だったとのことです。英語を話すことや外国人に抵抗がなかった二人は意気投合し、結婚後、横浜港から貨客船龍田丸(たつたまる:日本郵船所有)に乗船し、約12日間と9時間をかけてサンフランシスコに上陸しました。船内では乗客の誕生パーティーが開かれたり、楽しく華やかな瞬間が写真として残されています。

龍田丸でアメリカへ出発した沖田会長の両親
 船内の楽しく華やかな様子

若い二人が海外の新天地での夢を膨らませ、渡米のために乗船したこの龍田丸には日本の戦争史としても、重要な任務を果たすと共に、様々なストーリーが残されています。

三菱重工業長崎造船所で製造された龍田丸は1930年4月25日に処女航海後、米国や欧州航路への乗客と貨物輸送の他、戦時中は食料や医療品など救援物資の輸送、退役兵を帰還させたり、また欧州路線を絶たれたユダヤ人らがリトアニアの外交官の杉原千畝が発行したビザでシベリア、日本経由でアメリカに渡る人びとの輸送、日本軍による太平洋航路における地形調査、そして最後には1943年2月8日に米潜水艇の雷撃により沈没するという悲劇の最後を遂げました。(資料ウィキペディア参考)

アメリカに到着後、幸せな生活をはじめてしばらくすると開戦となり、1941年以降、一家はワイオミング州のハートマウンテンの収容所で過ごすことなり収容所にて長男が出生します。その後、家族はテキサス州クリスタルシティの移動させられ、1945年2月に同収容所内で次男の沖田義邦氏が誕生します。

終戦となり、沖田氏の両親は幼子と10か月の新生児を連れて、日本へ帰国し、実家のある御船で生活を始めました。沖田氏は地元の公立学校へ通い、18歳で高校を卒業するまで熊本で過ごしました。

御船高校の仲間と記念写真
その後、父親の勧めでアメリカで進学することを決め、帰米2世としてロサンゼルスに戻り、日系収容所内で親しくしていた沖縄出身の家庭を頼ってロサンゼルスで生活をはじめました。

その頃、アメリカではベトナム戦争のさなか、米国で出生し市民権を持つ沖田氏はベトナム戦争へ志願し、1年9か月を戦地で過ごします。英語もろくに話せないまま戦地に向かい、最初は通信技術の担当をしていました。その後、戦場に出て防空壕に暮らし、実戦で戦うなど様々な体験をしました。特に、アメリカ兵でありながら体も小さいアジア人の沖田氏は、仲間の兵士たちから”ベトナム人と間違われて、撃たれるかもしれないから絶対に前に行くな!”と言われ、非常に気づかわれたことが感謝の記憶として残っているとのことです。

また、戦地ではあらゆる人種が国のために命をかけて任務を果たし、人間はみな同じ、お互いが気づかえる存在であるべきで、人種差別はあってはならないということを強く感じたと言われています。

18歳でベトナム戦争へ従軍した時
 戦地の兵士と

兵役を終え、南カリフォルニア大学(USC)を卒業後、従軍前に勤務していた現地の大手企業に再雇用され、以来、50年以上に渡り現役で勤務されています。沖田氏(二世)の3人の子供たち(三世)も成人し、家族を持ち、孫たち(四世)にも恵まれています。また、沖田氏の兄は大学で薬学を学び、のちにリトルトーキョーで薬局を経営されていました。

帰米2世の沖田氏は生後10か月から高校を卒業する18歳まで熊本で過ごした幼馴染じみの人たちとも交友を温め続け、2005年には学友の旅行団体がロサンゼルス訪問し、沖田氏がラスベガスやグランドキャニオンを案内されています。友人の中には御船出身の元タカラジェンヌの風さやかさんもいます。
同級生で活躍する元タカラジェンヌの風さやかさん
両親の他界後も、御船の実家にはたまに帰省し、様々な分野で活躍する日本の仲間と再会し、交流を継続する中、2016年の熊本地震では御船の実家が被災しました。

実家の修復もしながら、沖田会長は南カリフォルニア熊本県人会会長として、復興支援の指揮をとり続け、約800万円近い金額が県人会の活動により募金され、アメリカから熊本県庁に届けられています。

2016年6月に1回目の募金を小野副知事に手渡した沖田氏

戦前から戦後へと激動の世の中を経験された沖田氏とその家族は、開拓移民ではありませんでしたが、アメリカへ渡った日系人の歴史の証人であることは確かです。沖田家が経験した内容が、在米熊本出身者の一例として、在米日系人の歴史のさらなる理解につながることを願っています。(文:安藤みちよ)

Introducing our former President Mr. Fukuoka(2001-2007) 
前会長 福岡健二氏をご紹介


Kenji Fukuoka:Pioneer Spirit Honoree(Nominated by Nanka Kenjinkai Kyogikai)
福岡健二:パイオニアスピリット受賞者

Kenji Fukuoka was born in 1946 and is the second son to Mitsutaro and Setsu Fukuoka of Kumamoto, Japan. At the tender age of 16, he moved to Nagoya and later to Tokyo to financially support his family. While working in Tokyo, he entered a youth program where he was selected to visit Hawaii and Los Angeles for a brief stay. During this trip, Fukuoka became determined to live in America.

In 1974, while attending Sangyo Noritsu University, he made a decision to further his education by attending school abroad in Los Angeles. Four years later, he married Hatsumi Kobayashi. Fukuoka prior to retirement, he spent many years beautifying Los Angeles homes as a gardener and landscaper. He became a United States citizen in 2001.

For more than 40 years, from the 1970s to the present, Fukuoka has been very active in helping and volunteering with the Japanese community and nonprofit organizations. He has served the Nikkei community as president of the Nanka Kenjinkai Kyogikai, Kumamoto Kenjinkai, and Taisho Club; and served as vice president, chairperson and other important positions for many other Nikkei organizations. In 2013, he received the Honorable Ryokuhakuji Yukousho Award from the Japanese government and the Testimonial Award from the Kumamoto prefectural government.

One of his most prominent volunteering contributions was in 2016. The Kumamoto region was hit with a 7.0 magnitude earthquake on April 16, 2016. Shortly after this tragic event, Fukuoka spearheaded the Kenjinkai Kyogikai's "Kumamoto Earthquake Relief Fund Drive." For the next 11 months, Fukuoka spent countless hours and days visiting various Japanese events and collected more than $130,000 in donations. What is so amazing is that after receiving several hundred donations, he personally wrote more than 850 thank you letters with a receipt to every donor. 100 percent of the initial donation money was first sent to the "Special Relief Fund Account," created by the governor of Kumamoto prefecture. The remaining donations, were thereafter sent to Kumamoto through the office of the Consul General of Japan in Los Angeles.

Today, Fukuoka continues to participate and volunteer with the Japanese speaking community and organizations. His contributions are well displayed and this award is well deserved. He and his wife Hatsumi have two daughters, Emi and Akiko.

福岡健二氏は1946年に生まれ、日本の熊本県の福岡光太郎と節の次男です。 16歳の若さで名古屋に移り、その後家族を養うために東京に移りました。東京で働きながらユースプログラムに参加し、ハワイとロサンゼルスに短期滞在するために選ばれました。この旅行中、福岡はアメリカに住む決意を固めました。

1974年、産業農立大学に在学中に、ロサンゼルスの海外学校に通うことで教育をさらに進めることを決定しました。 4年後、小林初美と結婚。退職前の福岡で、彼は庭師および造園家としてロサンゼルスの家を美化するために長年過ごしました。2001年に米国市民に帰化。

1970 年代から現在までの 40 年以上にわたり、福岡市は日本人コミュニティや非営利団体の支援やボランティア活動に積極的に取り組んできました。南華県人会協会会長、熊本県人会会長、大正クラブの会長として日系社会に貢献。他の多くの日系団体の副会長、会長、その他の重要な役職を歴任しました。2013年、日本政府より緑博綬名誉賞、熊本県より表彰状を受賞。

彼の最も顕著なボランティア活動の 1 つは 2016 年でした。2016年 4 月 16 日に熊本地方はマグニチュード 7.0 の地震に見舞われました。この悲劇的な出来事の直後、福岡は県人会協会の「熊本地震救援募金運動」の先頭に立ちました。次の 11 か月間、福岡は数え切れないほどの時間と日を費やしてさまざまな日本のイベントを訪れ、13 万ドル以上の寄付を集めました。驚くべきことは、数百の寄付を受け取った後、彼はすべての寄付者に領収書を添えて850通以上の感謝の手紙を個人的に書いたことです.当初の義援金は100%熊本県知事が作成した「特別義援金口座」に振り込まれました。残りの義援金はその後、在ロサンゼルス日本国総領事館を通じて熊本に送られました。

今日、福岡は日本語を話すコミュニティや組織に参加し、ボランティア活動を続けています。彼の貢献は十分に発揮されており、この賞は当然のことです。妻の初美との間には、えみとあきこという二人の娘がいます。


Mr.Fukuoka's life long supporter, his wife Hatsumi
福岡氏の活動を支える妻の初美さんと共に歩んだ人生




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